101『氷点』(ひょうてん)

長編現代小説

小説『氷点』について(概要)

連載 … 朝日新聞1964年12月〜1965年11月
出版 … 朝日新聞社1965年11月
現行 … (上下2巻)朝日文庫・角川文庫・小学館電子全集
旭川を舞台にした現代小説。病院長の辻口啓造と妻・夏枝を巡る愛憎劇。ある夏の日に起こった事件が、一家を悲劇の渦に巻き込んでゆく。その発端となったのは、夏枝と眼科医・村井の逢引だった。嫉妬に駆られた啓造が目論んだ、驚きの復讐とは?

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作品本文の冒頭1章

   「敵」

 風は全くない。東の空に入道雲が、高く陽に輝やいて、つくりつけたように動かない。ストローブ松の林の影が、くっきりと地に濃く短かかった。その影が生あるもののように、くろぐろと不気味に息づいて見える。
 旭川市郊外、神楽町のこの松林のすぐ傍らに、和、洋館から成る辻口病院長邸が、ひっそりと建っていた。近所には、かぞえるほどの家もない。
 遠くで祭りの五段雷が鳴った。昭和二十一年七月二十一日、夏祭りのひる下りである。
 辻口家の応接室に、辻口啓造の妻、夏枝と、辻口病院の眼科医村井靖夫が、先程から沈黙のまま、向いあって椅子に座っている。座っているだけでも、じとじとと汗ばんで来るような暑さであった。
 突然、村井は無言のまま立ち上ると、大股にドアのところまで行って取手に手をかけた。
 取手が、ガチャリと音を立てた。長い沈黙の中で、その音が夏枝には、ひどく大きく響いた。
 夏枝は思わず目を上げた。つややかな瞳に、長いまつげが影を落している。とおった鼻筋に気品があった。紺地の浴衣に、雪国の女性らしい、肌理こまかい色白の顔がよく映えている。
(さっきから、黙ってばかり……)
 そう思いながら、夏枝は背を向けたまま立っている村井の、長身の白い背広姿を見上げて微笑した。つつましやかな、整った夏枝の唇が、ほほえむと意外に肉感的に見える。それは二十六歳の若さの故ばかりではなかった。
 先程から、村井が何を言いたがっているかに夏枝は気づいている。夏枝は、その言葉を待つ表情になった。そのような自分を意識しながら、旅行中の夫、啓造のやや神経質だが優しい目を、ふと思い出していた。
 今年の二月であった。夏枝は、ストーブの灰を捨てる時、灰が目に入って村井に診てもらった。その時以来、村井は夏枝から心をそらすことが、できなくなっていた。
 無論それまで、院長夫人である夏枝を知らない訳ではない。しかし夏枝には、まともに顔を合わすこともできないような、関心を持つことすら憚られるような犯しがたい美しさがあった。
 その夏枝が彼の患者となったのである。手術台の上の、夏枝の角膜につきささっている微細な炭塵をとりのぞき、眼帯をかけ終ると、村井はかつてないふしぎな喜びを感じた。
「これですね、犯人は」
 村井は夏枝に、ピンセットの先の小さな炭塵を見せた。
「見えませんわ。あまり小さくて」
 手術台の上に片手をついた姿勢で、夏枝は小首をかしげて微笑した。
「これなら、見えますでしょう」
 村井は白いちり紙に、ピンセットをなすりつけるようにして炭塵を移した。それを見る二人の頬がふれ合わんばかりに近いのを、村井は意識していた。
「まあ、こんなに小さいんですの。あんまり痛いものですから、どんな大きなゴミかと思いましたわ」
 眼帯をかけて片目になった夏枝は、遠近が定まらなかった。定まらないままに、彼女はじっとゴミをみつめていた。二人の頬を寄せ合う時間が、少し長かった。
 それから半月程、夏枝は通院した。彼女の目がかなりよくなって、治療の必要がなくなっても、村井はだまって洗眼した。
「もうよろしゅうございますか」
 ある日、夏枝がたずねると、村井は哀願するようなまなざしをした。
「もう一度、暗室でよく診なければ……」
 少し声がかすれた。
 暗室はせまかった。向き合って椅子に座っている二人の膝が触れた。診る必要はなかった。だが彼は、ゆっくりと時間をかけて診察した。
 終ると村井は、食い入るように夏枝をみつめた。その真剣な目のいろに、夏枝はたじろいだ。同時に、胸の中にキュッと押しこんで来る、ふしぎに快い感情があった。だが夏枝は表情を変えなかった。
「ありがとうございました」
 立ち上る夏枝の手を村井がつかんだ。
「行かないでください」
 子供っぽい言い方がかわいいと思った。夏枝は、つつましく目をふせると、村井の手をそっとはずして暗室を出た。
 それから村井は、時々辻口家を訪ねるようになった。しかし辻口家の幼い徹とルリ子に対しては、あまり言葉をかけなかった。
「村井さんは、子供がおきらいらしいですわね」
 ある時、夏枝が言った。啓造がちょうどその場を、何かの用ではずした時だった。
「子供がきらいというんでは、ないのですが……」
 村井はちょっと皮肉に唇をゆがめた。冷たい、ニヒリスチックな表情であった。
「でも奥さんの子は嫌いだな。嫌いというより呪いたい存在と言いますかね」
「まあ! 呪うなんて……そんな……」
「奥さんは、子供なんて産んでほしくなかった」
 村井の慕情の激しさに、夏枝は感動した。
 今、ドアの前に立っている村井の後姿を見ながら、一か月ほど前の、その村井の言葉を夏枝は思い出していた。
 遠くで再び祭りの五段雷が鳴った。
 取手に手をかけたまま、村井がふり返った。その広い額がじっとりと汗にぬれている。やや、うすい唇が、もの言いたげにかすかに動いた。
 夏枝は村井の言葉を待った。
 その言葉を待つと言うことが、人妻の彼女にとって、どんなことなのか今は、夏枝は気づきたくなかった。
「どうして、ぼくに結婚なんか、すすめるんです?」
 村井のたたきつけるような激しい語調に、長い沈黙が破られると、夏枝はかるいめまいをおぼえて、傍らのスタンドピアノによりかかった。
「奥さん!」
 村井はピアノに寄りかかっている夏枝に近づいた。夏枝は、すばやく椅子から立ち上ると、うしろへ退いた。
「奥さん、あなたは残酷な方だ」
 村井は夏枝の前に立ちはだかるように迫った。
「残酷ですって?」
「そうですよ。残酷ですよ。あなたは、さきほど、ぼくに縁談を持ち出したじゃありませんか。ぼくは、あなたがわかっていてくださるとばかり思っていた。ずっと以前から、ぼくの気持がよくわかっていらっしゃったはずだ。それなのにあなたは……」
 村井はテーブルの上の写真を見た。夏枝がすすめた写真の女性は、笑声が聞えそうなほど無邪気な笑顔で、アカシヤの樹によりかかって写っている。
 村井は視線を夏枝の上にもどした。男にしては美しすぎる黒い瞳であった。その目が、時々どうかすると虚無的に暗くかげることがあった。その暗いかげりに夏枝はひかれるものを感じた。
 今、村井はややすさんだ暗い目で夏枝をみつめている。夏枝はその村井の胸に倒れこみそうな自分を感じて目をふせた。
 こんなふうに明らさまな口説をきく日が、いつか来るように夏枝は思っていた。
 今日縁談を持ち出したのも、村井は結婚をすすめるためではなく、夏枝に対する関心がほんとうのところ、どの程度のものかを、はっきり知りたいためかも知れなかった。
 夏枝は、よくしなう美しい手を合わせて、拝むように胸のあたりに持って来た。そのしぐさが、ひどくなまめいて見えた。
「夏枝さん」
 白いしっくいの壁を背にした夏枝の前に立ちふさがると、村井は夏枝の肩に手を置いた。村井の手のぬくみが、浴衣を通して夏枝の体に伝わった。
「いけません。怒りますわ、わたくし……」
 村井の顔が覆うように夏枝に迫った。
「村井さん、わたくしが辻口の妻であることを、お忘れにならないでください」
 夏枝の顔が青かった。
「夏枝さん、それが忘れられるものなら……ぼくはそれを忘れたい! 忘れられないからこそ、今までぼくは苦しんで来たじゃありませんか」
 村井の手が夏枝の肩を激しく揺さぶった、その時であった。廊下に足音がして、ドアが開いた。
 ピンクの服に白いエプロンをかけたルリ子が、チョコチョコと入って来た。
 村井はあわてて、二、三歩夏枝から離れた。
「おかあちゃま、どうしたの?」
 三歳のルリ子にも、大人二人の様子にただならぬものを感じとったらしく、いっぱいに見ひらいた目で村井をにらんだ。
「おかあちゃまをいじめたら、おとうちゃまにいってやるから!」
 ルリ子はそういって小さな手をひろげて、母をかばうように夏枝のそばにかけよった。
 村井と夏枝は思わず顔を見合わせた。
「そうじゃないのよ、ルリ子ちゃん。おかあちゃまはね、先生と大切なお話があるのよ。おりこうだから、外で遊んでいらっしゃいね」
 夏枝は小腰をかがめ、ルリ子の両手を握って軽く振った。
「イヤよ。ルリ子、村井センセきらい!」
 ルリ子は村井を真っすぐに見上げた。子供らしい無遠慮な凝視だった。村井は思わず顔をあからめて夏枝をみた。
「ルリ子ちゃん! いけません、そんなことをいって。村井先生は、おかあちゃまと大事なお話があるといったでしょ? おりこうさんね、よし子ちゃんのお家へ行って遊んでいらっしゃい」
 夏枝は村井よりもいっそう顔をあからめてルリ子の頭をなでた。
 もし、村井の愛を拒むなら、今ルリ子をひざに抱きあげるべきだと夏枝は思った。しかしそれができなかった。
「センセきらい! おかあちゃまもきらい! だれもルリ子と遊んでくれない」
 ルリ子はくるりと背を向けて応接室を飛び出して行った。エプロンの蝶結びが可憐に揺れた。
 夏枝はよほど呼びとめようかと思った。しかし今しばらく村井と二人きりでいたい思いには勝てなかった。
 廊下を走るかわいい足音が勝手口に去った。何か心に残る足音だった。
「ごめんなさい、ルリ子が失礼なことを申しあげまして……」
 ルリ子の出現が二人を近づけた。
「いや、子供って正直ですね。そして恐ろしいほど敏感なものですね」
 村井は、立ったまま煙草に火をつけながらいった。
「あなたはうちの子をおきらいでしたものね」
「きらいというのとは、ちょっとちがうんです。徹くんにしろ、ルリ子ちゃんにしろ、何かこう神経質な感じや、はれぼったいような眼なんか、院長そっくりじゃありませんか。ぼくは院長と夏枝さんの子供だという、その事実に耐えられないんです。見るのも辛いことさえある」
 村井は煙草を灰皿に捨てると、両手を深くズボンのポケットに入れたまま、熱っぽく夏枝をみつめた。
 二人の視線がからみ合った。
 村井は煙草を灰皿に捨てると、両手を深くズボンのポケットに入れたまま、熱っぽく夏枝をみつめた。
 二人の視線がからみ合った。
 夏枝が先に視線をそらした。彼女は静かにピアノの前に座ってふたを開いた。何を弾くというのでもなかった。両手を軽くピアノの上に置いたまま夏枝はいった。
「お帰りになって頂けません?」
 声が少しふるえた。夫も、女中の次子も、ルリ子もいないこの家の中で、何かが起るのを彼女は感じた。夏枝の体の中に、その何かを期待するものがあった。その自分が恐ろしかった。
 富枝の言葉を聞くと、村井は片頼に微笑を浮べて、ピアノの前に座っている彼女のうしろに立った。
「夏枝さん」
 彼はうしろから、ピアノの鍵盤におかれた夏枝の白い両手を上からおさえた。ピアノが大きく鳴り響いた。
 思わずふり向いた夏枝の頬に、村井の唇が触れた。
「いけません」
 心とは反対の言葉だった。村井は無言で夏枝の肩を抱いた。
「いけません」
 村井の唇をさけて、夏枝はあごを深く衿にうずめた。唇だけは避けなければ、そのあとの自分に自信がなかった。
「いけません」
 夏枝の頼を上に向かせようとしている村井に三度拒むと、村井は身をかがめて夏枝の頼に唇をふれようとした。彼女はかたくなに身をよじって村井をさけた。村井の唇は夏枝の頼をかすめただけであった。
「わかりました。そんなにぼくをきらっていられたのですか」
 村井は夏枝の拒絶にはずかしめられた思いで、さっとドアを開けて玄関に出た。
 夏枝は呆然として立ち上った。
(きらいなのじゃない)
 拒絶は媚態であり、遊びであった。次に来るものをいつの間にか夏枝は待っていたのだった。二十八歳の村井には、それがわからなかったのだ。
 夏枝は村井を送りに出なかった。引きとめてしまいそうな自分が恐ろしかった。
 村井の唇がふれた頼に、そっと手を当てた。その部分が宝石のように貴重に思えた。胸をしめつけるような甘美な 感情があった。結婚して六年、夫以外の男性にほじめて口づけを頼に受けたことが、夏枝の感情をたかぶらせた。
 夏枝は再びピアノの前に座った。キイの上を白い指が走った。ショパンの幻想即興曲であった。次第に感情が激して来た。夏枝は長いまつ毛をとじたまま酔ったようにピアノを弾きつづけた。
 ちょうど、このころ幼いルリ子の上に何が起きていたかを、夏枝は知る由もなかった。
 突然ピアノ線が鋭い音を立てて切れた。不吉な感じだった。
 はっとした瞬間、
「ピアノ線が切れるまで弾くとは、またずいぶん御熱心なことだね」
 いつの間にか夫の啓造が、いつものように優しい笑顔でうしろに立っていた。
「あら! 今日でしたの」
 夏枝は狼狽した。啓造の帰宅は明日の予定であった。ぽっと頬をあからめて立ち上った姿がなまめいた。それが啓造には、夫の突然の帰宅を喜ぶ姿に思われた。
「だまって立っていらっしゃるんですもの、いやなかた!」
 夏枝は啓造のくびに、その白いむっちりした両腕をからませて彼の胸に顔をうずめた。今の今まで、村井靖夫を思って上気した自分の顔を、夏枝は見られたくなかったからである。
 啓造はふと、いつもとちがったものを夏枝に感じた。今までの夏枝は、自分から啓造のくびを抱くというようなことはなかった。
「暑いよ」
 そういいながらも、しかし啓造は夏枝の背に腕をまわした。
 啓造は学者肌で、神経質だがとげとげしいところが少なかった。もの静かで優しい夫であった。信頼できる夫だった。
 夏枝は、夫の胸に顔をうずめながら、心が次第に安らかになっていった。先ほどの妖しく波だった村井への感情が、今はふしぎだった。嘘のようでもあった。
(やっぱり辻口が一番いいわ)
 そう思った。夏枝は啓造を愛している。医者としても夫としても尊敬していた。何の不満もなかった。
(それなのに、何故村井さんと二人でいることがあんなに楽しいのかしら)
 夏枝にはそれがふしぎだった。今はこうして、夫が一番いいと思っていても、再び村井に会うとどうなるか、自信がなかった。制御できないものが、自分の血の中に流れているのを夏枝は感じた。
(おかあちゃまをいじめたら、おとうちゃまにいってやるから!)
 ふと、先程のルリ子の言葉を思い出して、夏枝はヒヤリとした。
「おつかれになって?」
 ルリ子の帰りが、なるべく遅いようにとねがいながら、夏枝は夫を見上げた。
「うん」
 啓造は、子供の頭を撫でるようにやさしく夏枝の頭を撫でた。パーマをかけない豊かな髪がこころよく匂った。彼は夏枝の髪にあごをつけたまま、何気なくテーブルの上を見た。
 啓造の目が鋭く光った。そこにはコーヒー茶碗と灰皿があった。灰皿にある吸いがらを啓造は目で数えた。八本までは数えられた。
 彼はひややかに妻をはなれた。
 夫の気配に夏枝はハッとした。
「ルリ子はどうした? 徹も次子もいないじゃないか」
 啓造のきびしい視線は、なおテーブルの上にあった。啓造の表情に、夏枝は村井の来訪を告げそびれた。
「徹は次子に連れられて映画ですわ。ルリ子ほその辺で遊んでいませんでした?」
「見なかった」
 幼いルリ子まで外に追いやって、誰もいないこの部屋で、一体この煙草の吸いがらの主と何をやっていたのかと、啓造は探るような目になっていた。
 来訪者が誰であったかを夏枝から先にいってほしかった。啓造はピアノに片手をふれた。
 ドミソ ドミソ ドミソ
 指は同じ鍵をくり返していた。
 何かやりきれなかった。夏枝は急に不機娩になった夫に、ますます村井の来訪をいい出しかねた。
 ドミソ ドミソ ドミソ
 バタンと大きな音を立てて啓造がピアノのふたをしめ た。ちょうど夏枝が灰皿とコーヒー茶碗を下げるところであった。
 一瞬、啓造と夏枝の目が合った。カチリと音のしそうな視線であった。夏枝が先に目をそらして部屋を出て行った。ドアを出て行く夏枝を眺めながら、啓造は来客のことに一言も触れない妻にこだわっていた。
「客があったのか」
 と、さりげなく気軽に問うことが、もはや啓造にはできなかった。
「村井か、高木か」
 彼の留守に通す男客といえば、この二人しかない筈である。
 高木雄二郎は産婦人科医で、札幌の総合病院に勤めていた。啓造の学生時代からの親友である。高木は学生時代、夏枝を嫁にもらいたいと夏枝の父に願い出た。夏枝の父津川教授は、内科の神様といわれ、啓造や高木の学生時代の恩師であった。
「夏枝の嫁ぎ先は考えてある」
 と断わられた高木は、
「それは誰です。辻口ですか、奴ならおれは諦める。しかし他の奴だったら絶対諦めません」
 と大声でどなったと啓造は夏枝からも、高木本人からも聞いていた。
 高木は目鼻立ちの大造りな豪放磊落型の男であった。時々ひょっこりと札幌から出て釆て、病院に啓造を訪ねると、
「これからお前のシェーン(美人)なフラウ(奥さん)を口説きに行くがいいか?」
 などと冗談をいう独身の男だった。
(高木が訪ねてきたのならいいんだ)
 高木はさっばりした気性で、夏枝のことなど、とうに忘れているらしい。どういう風の吹き回しか、専門外の乳児院の嘱託をやり、
「おれには、結婚しなくても、子供だけはゴシャマンといるぞ」
 と結構楽しそうに暮している。
(高木は今日札幌で会って釆たばかりだ。すると訪問客はやはり村井か)
 啓造は不安になった。
(村井が来たと素直にいえない何かやましいことがあったのだろうか)
 彼は暗い表情になって、窓外のストロープ林に目をやった。
(うん……辰子さんかも知れない。あの人も煙草は喫う)
  資産家の一人娘藤尾辰子は、夏枝と同じ二十六歳、女学校時代からの夏枝の友人で、日本舞踊の師匠である。
(あの人は応接室になど入らない)
 啓造はいらいらと一人思い惑っていた。
 勝手口に女中の次子と幼い徹の声がした。徹の何かいって笑う澄んだ声がきこえて来た。
(映画から帰ったのか)
 そう思いながら啓造は応接室を出て茶の間に行った。夏枝と次子は台所にいるらしく、徹は茶の間のソファに腹ばいになっていた。
「おとうさん、帰ってたの? あのね、おとうさん、ぼくアメリカの兵隊さんになろうかな」
「どうして?」
 啓造は、今日の来客は村井にちがいないと思いながら、徹の傍に腰をおろした。
「うん。アメリカの兵隊さんね、とっても勇ましいの。機関銃をダダダ……と射つとね、敵がバタバタ死ぬんだよ」
「ふーん、戦争映画かい」
 啓造はいやな顔をした。
「敵はみんな死ぬんだ。だけど死ぬって、どんなこと? 死んだらいつ動くの?」
「死んだら、もう動けないねえ」
「おとうさんが注射したら動く?」
「いや、どんなに沢山注射しても動かない。もうごはんも食べないし、話もしないよ」
「うーん。死ぬっていやだなあ。でも敵は死んでもいいんだね。だけど、敵ってナーニ? おとうさん」
「敵っていうのはねえ……困ったねえ」
 戦争中に啓造は三カ月ほど、北支の天津に軍医として行っていた。肋膜炎ですぐ帰されたのである。そんな短い期間の兵粘病院での軍医生活では、戦争を実感として感ずることはできなかった。風景や女性の風俗に異国情緒を感じたが、この空の下で、どこかに壮絶な戦いがあるということすら啓造にはふしぎだった。
 旭川に帰っても、艦載機が一、二度来ただけで終戦を迎えてしまった。もともと学生時代から反戦思想であった啓造には、どの国に対しても敵という意識はなかった。だから、徹に敵とは何かといわれても、答えにつまった。
「そうだねえ。敵というのは、一番仲よくしなければならない相手のことだよ」
 五歳の徹にはわかるまいと、啓造は自分の言葉に苦笑した。
「ルリ子ちゃんが敵なの?」
 いつも兄妹は仲よくするようにといわれている徹であった。
「いや、ルリ子は徹の妹だよ。敵というのはね、憎らしい人のことだ。意地悪したり、いじめたりする人さ」
「ああ、四郎ちゃんね。四郎ちゃんが敵?」
 徹は近所の子の名をあげた。
「困ったな、どうもむずかしい。四郎君は友だちさ、敵じゃないよ」
 啓造は笑った。
「とにかく、うんと仲のわるい人だよ」
「仲のわるい人と、どうして仲よくしなければならないの?」
 徹はかわいい眉根をよせて考える顔になった。
「昔ね、イエスというえらい人がいてね。その人が、敵とは仲よくしなさいと教えたんだよ」
 啓造は「汝の敵を愛すべし」という言葉を思い出していた。学生時代だった。夏枝の父である津川教授がいったことがあった。
「君達はドイツ語がむずかしいとか、診断がどうだとかいいますがね。わたしは、何がむずかしいといって、キリストの〝汝の敵を愛すべし″ということほど、むずかしいものは、この世にないと思いますね。大ていのことは努力すればできますよ。しかし自分の敵を愛することは、努力だけじゃできないんですね。努力だけでは……」
 夏枝の父は内科の神様のようにいわれた学者で、その人格も極めて円満な人であったから、ひどく悲しげな面持で 語ったその言葉は啓造に強い印象を与えた。
 学生の啓造からみると、この教授には不可能な事が一つもないように思われた。講義の時に何かのことから津川教授はそう語ったのだったが、こんな円浦な人にも敵がいて、悩むことがあるのかと、啓造は不思議に思ったものであった。
「何だかよくわかんない」
 敵と仲よくせよといわれた徹は、不得要領の軒で台所に立って行った。空腹をおぼえたらしく、
「おかあさん、何かちょうだい」
 と甘ったれている声がした。
 啓造は、敵という言葉について思いめぐらしながら、不意に村井靖夫のねたましいまでに美しい目を思い出した。すると予期せずに殺意に似た感情が彼の胸をよぎった。
「敵とは、一番仲よくしなければならない相手だ」
 とたった今、徹にいった自分がおかしかった。今までも、生真面目な啓造と、何か投げ出しているような虚無的な村井とはどこか肌が合わなかった。それでいて何となく気になる存在だった。
(もし今日、おれの留守に夏枝と何かあったとしたら……夏枝はなぜいきなりおれに抱きついてきたのだろう? 今までそんなことをしたことはなかったのに……)
(いつも静かにピアノを弾く夏枝が、なぜ、あんなにピアノ線が切れるまで激しい弾き方をしたのだろう? なぜ、客のあったことを夏枝は黙っているのだろう? 何かあったのだ。もしそれが村井とだったら)
 絶対に許せないと啓造は思った。自分の生活を脅かす者に寛容であり得る訳はない。
(敵とは愛すべき相手ではない。戦うべき相手のことだと徹にいうべきであった)
 啓造はそう思いながら二階の書斎に上がって行った。

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