
小説『ひつじが丘』について(概要)
連載 … 主婦の友1965年8月〜1966年12月
出版 … 主婦の友社1966年12月
現行 … 講談社文庫・小学館電子全集
札幌と函館を舞台にした現代小説。お嬢様育ちでプライドの高い奈緒実は、記者で画家志望の良一と、両親の反対を押し切って結婚。が、人を愛し通すことの難しさに直面し、「愛するとは、ゆるすことだよ」と諭した父の言葉をかみしめることになる。
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作品本文の冒頭
泳いでみたいような青い空であった。じっとみつめていると、空の奥からたぐりよせられるように、細い絹糸にも似た雲が湧いてくる。
昼食後、杉原京子は、教室の二階の窓によって、先ほどから空をながめていた。白い絹糸と見た雲は、みるみるうすいベールとなり、それがいつのまにかポッカリと空に浮かぶ雲となった。
ようやく雲が形をとると、京子は微笑して、視線を下の校庭に移した。人かげのない広い校庭に、バレーボールがひとつ転がっている。校庭の周囲には、六月の陽をいっぱいに浴びたリラの花が咲いていた。
札幌の人々は、京子たちの学校を北水女子高校と、正規の名前では呼ばず、もう長いことリラ高女と呼んでいた。リラの木が多かったからである。紫に白の絵の具をたっぷりとかきまぜたような、リラの花の色と、その香りが京子は好きだった。
透きとおるような色白の、どこかうれいのある京子の横顔は、セーラー服よりは、むしろ十二単衣でも似合いそうな風情があって、昭和二十四年の高校生とは思えない。
食事を終えた生徒の何人かが、机の上に腰をかけて、流行歌をうたいはじめた。
「………たれを待つやら
銀座のまちかど……」
流行の〝カンカン娘〟である。
すると、他の一団が対抗するように、
「………あおい山脈
雪わりざくら……」
と、うたいはじめた。
「カンカン娘」と「青い山脈」が教室いっぱいにひびいた。
と、その時、勢いよくこの三年A組のドアが開いた。急に歌声が低くなった。
「ビッグニュース。ビッグニュース」
明るい、よくとおる声で入ってきたのは、となりのB組の山崎タミ子である。ズングリとして色は黒いが、胸のホックが今にも弾けそうな豊かな胸をしている。A組の生徒たちは、入ってきたタミ子を見て、思わずニヤニヤした。
タミ子は、ニュース屋を以て任じている。毎日のように、さまざまのニュースを同学年の四クラスに、にぎやかに伝えてあるく。だが、そのニュースなるものは、校長が廊下で紙くずを拾っていたとか、某先生は新しいくつをはいてきたとかいう類の、至って他愛のないニュースばかりで、きき耳をたてるほどのものではない。
しかし、身ぶり手ぶりの多い話し方に愛嬌があって、校長が紙くずひとつ拾ったぐらいの話でも、きく者をけっこう楽しませ、笑わせた。だから今も、A組の生徒たちは、笑う用意をして山崎タミ子を見たのである。
「どうせ、山崎さんのビッグニュースなんて、小使室の三毛が子猫を三匹生んだなんていうぐらいのもんね」
だれかが茶化した。
「すごいのよウ。ああ、すてきな人!」
たれが何を言おうと、タミ子は気にもとめずに、大仰に自分の胸をだいて、ため息をついた。
「すてきな人? だれのこと?」
クラス一の美人と自他共にゆるしている川井輝子が、勝気そうに、美しい眉をピリリとあげた。形はよいが細い目が冷たい。輝子は、今流行のロングスカートをまねて、規定すれすれまで長くしたスカートと、背丈をこれ以上どうすることもできないまでに短くしたセーラー服をたくみに着こなしている。
「だれがって、今ここにあらわれる人よ。転校してきたらしいの。このクラスの竹山先生と、校長室から出てくるのを見たのよ」
陽気なタミ子は、川井輝子のふきげんな様子に目もくれない。
「そんなにきれいな人?」
たれかが言った。
「もちろんよ。ミス札幌にでも、ミス北海道にでもなれるわよ。うそだったら、首あげる。とにかく、あんな感じの人、あまり見たことがないわ。さあ、忙しくなっちゃった。ほかのクラスにも知らせなきゃ」
山崎タミ子は、かけ足をするように、両のにぎりこぶしを腰にあてて、教室をとび出した。と思うと、すぐに引きかえして顔だけ見せて、
「きた、きた」
と叫ぶや、ウインクをして再び走り去った。
京子は思わず微笑した。うれしかったのである。川井輝子は、どういうわけか、このごろ京子につらく当たった。教師たちに、特に異性の教師たちに、京子が目をかけられるためかもしれない。
何よりつらいのは、小料理屋の娘である京子を、社長の娘の輝子が「パンパン」とか「アンパン」とか、聞こえよがしに悪口をいうことであった。
(うちはパンパン屋なんかじゃないわ)
女手ひとつで、兄の良一と自分を育てた母の苦労を京子は知っていた。だから、パンパン屋などと言われる毎に、輝子を刺し殺したいほど憎くなるのだった。しかし京子には、勝気な輝子とは口争いすらできなかった。
いま、山崎タミ子が告げたような、美しい生徒が入ってくるならば、輝子は京子への意地悪いまでのライバル意識を、その人に移すにちがいない。そう思って京子はうれしかったのだ。
山崎タミ子が走り去ると、やがて担任の教師竹山哲哉が、教室の入口に姿を見せた。
竹山哲哉は英語の教師である。ハラリとひたいに垂れた髪をかきあげるのが、生徒たちには魅力だった。竹山の気どらない、しかし熱のこもった英語の授業は人気があった。あるいは竹山が熱心な教師でなくても、人気はあったことだろう。二十六歳の独身の男性というだけで、女子高校の生徒たちには、じゅうぶん魅力的な存在である。しかも竹山は、どこにいても目につくほどの、清潔な感じの青年であった。
竹山の後から、転校生が入ってきた。よく伸びきった、均整のとれた肢体だった。その姿を見ると、ざわめいていた生徒たちは一瞬電流にふれたようにハッと息をのんだ。
「御紹介します。函館のT高校からこられたヒロノナオミさんです」
そう言って、竹山は黒板にていねいな字で、
「広野奈緒実さん」
と書いた。
深く静まりかえっているような、奈緒実の黒い瞳に、生徒たちの視線はたちまち吸いよせられた。
注視を浴びながらも、広野奈緒実は、はにかみもしない。木彫りのようなカッキリとした二重まぶたを、まばたきもさせずに、ゆっくりと一同を見わたして一礼した。それがひどく大人っぽい感じだった。
A組の生徒たちは、新任の教師を迎えるような錯覚を感じた。しかしそれは快い圧迫感であった。
「広野奈緒実さんのおとうさんは……」
竹山が言いかけた時だった。奈緒実はゆるくウエーブしたような長目のおかっぱを激しくふって、竹山の言葉をさえぎった。竹山はちょっと驚いたようすで、奈緒実をながめた。だが、すぐ二三度うなずいて苦笑した。
「では、みんなで、仲よくして下さい」
そう言ってから、
「杉原さん」
竹山が京子を呼んだ。
「ハイ」
突然自分の名前を呼ばれて、京子はほおをあからめて立ちあがった。京子は、奈緒実を一目見ただけで、ふしぎな感情に胸をゆすぶられて、うっとりとその顔をみつめていたのである。
「あの人が、杉原京子さんです。杉原さんの横の席があいていますから……」
竹山はそう言うと、忙しそうに教室を出て行った。
奈緒実はゆっくりと京子のそばに近よった。京子は自分自身が転校生のように動悸しながら、
「あの……杉原京子です。どうぞよろしく」
とていねいにおじぎをした。奈緒実も京子も、相手が自分の一生に重大なかかわりを持つ存在になろうとは、この時は夢にも思わなかった。
奈緒実の目に親しみぶかい微笑が浮かんだ。京子はそれを見ただけでドキリとした。奈緒実は無言のまま礼を返して席に着いた。
奈緒実の席は窓がわであった。京子は言葉をかけようとして、いくどか奈緒実の方を見た。しかし奈緒実は、ただ黙って晴れた空をながめていた。
奈緒実には、話しかけることをためらわせる何かがあった。とりすましているのともちがう。冷たいというのでもない。自分の部屋にでも、とじこもっているように、奈緒実は見事に独りになっていた。
ほおづえをついて、空を見ている奈緒実には三年A組の誰にもないふしぎな雰囲気があった。それは孤独と呼ぶべきものかもしれなかった。
(川井さんなんか、足もとにも及ばないわ)
京子はそっと輝子の方をふり返った。
午後の始業のベルが鳴った。