108『道ありき』(みちありき)

自伝小説

小説『道ありき』について(概要)

連載 … 主婦の友1967年1月〜1968年12月
出版 … 主婦の友社1969年1月
現行 … 新潮文庫・小学館電子全集
療養期を描いた自伝小説。終戦の翌年、小学校教員を辞めた綾子は婚約した。と同時に罹病。生きる意味などないと自暴自棄になる彼女に寄り添った恋人たち。彼らの思いは届くのか。制御できない自分に怯える彼女を包む、至高の愛に出会う物語。

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作品本文の冒頭

   (一)

 昭和二十一年四月、たしかその日は十三日ではなかっただろうか。啄木忌であったと記憶している。わたしの所に西中一郎から結納が届く日であった。
 ところが、どうしたわけかわたしは急に貧血を起こして倒れてしまった。生まれて二十四年、かつて一度も貧血など起こしたことのないわたしであった。だから、よりによって、婚約の日に貧血を起こして倒れたということは、わたしに不吉な予感を与えた。
 床の中で意識をとりもどしたわたしは、自分がどんな気持で婚約しようとしていたかを、反省せずにはいられなかった。実はあきれた話だが、わたしは、もう一人のTという青年とも、結婚の約束をしていたのである。つまり二重婚約ということになる。そのような荒れた生活に至ったのには理由があった。
 昭和二十一年という年は、敗戦の翌年であった。その敗戦という事実と、わたし自身の問題とを語らなければ、このわたしの婚約もわかってもらえないのではないかと思う。
 わたしは、小学校教員生活七年目に敗戦にあった。
 わずかこの一行で語ることのできるこの事実が、どんなに日本人全体にとっては勿論、わたしの生涯にとっても、大きな出来事であったことだろう。
 七年間の教員生活は、わたしの過去の中で、最も純粋な、そして最も熱心な生活であった。わたしには異性よりも、生徒の方がより魅力的であった。
 授業が終って、生徒たちを玄関まで見送る。すると生徒たちは、
「先生さようなら」「先生さようなら」
 と、わたしの前にピョコピョコと頭を下げて、一目散に散って行く。ランドセルをカタカタさせながら、走って帰っていく生徒たちの後姿をながめながら、わたしは幾度涙ぐんだことだろう。
(どんなに熱心に、どんなにかわいがって教えても、あの子たちにはどこよりも母親のそばがいいのだ)
 わたしは、内心子供たちの親が羨ましくてならなかった。わたしは、ずいぶんきびしい教師であったけれども、子供たちは無性にかわいかった。
 あるいは、こんな受持教師の愛情を、母親たちは、知らないのではないだろうか。よく勉強のできる子をかわいがるとか、美しい子をひいきにするとか言って、受持の教師の悪口をいう母親たちが今もいる。
 しかし、一度でも生徒を受け持ってみたらわかることと思う。たしかに、最初の一週間ほどは、眉目かたちの美しい子や、積極的に質問する生徒は目につく。それは、目につくということであって特に目をかけるということとはちがう。
 だが、一週間も過ぎると、できる子もできない子も、美しい子も目立たない子も、一様にかわいくなってくるのだから不思議である。それはちょうど、結婚したら顔のことなど、それほど気にならないような、夫と妻との関係に似ている。
 わたしは生徒一人一人について、毎日日記を書いた。つまり、生徒の数だけ日記帳を持っていたことになる。生徒の帰ったガランとした教室で、山と積み重ねた日記帳の一冊一冊にわたしは日記を書きつづっていった。
「国語の時間に、突然立ち上がって、気をつけ! と号令をかけた人志君。びっくりして人志君を見つめると、頭をかいてすわった。わたしはニヤリとした。きょうは秋晴れのよい天気で、さっきから運動場で古川先生が四年生に号令をかけていられた。その号令に気をとられた人志君、たまらなくなって、自分も号令をかけてみたくなったのだろう。将来どんな青年になるか楽しみである」とか、
「図画の時間、飛行機を上手に書いていた守君。机間巡視をしながら、うまいねと声をかける。鼻をすすり上げながら得意そうにほめられた飛行機を隣や後の友だちに見せている。やがて図画の時間も終わる頃、守君の絵は真黒にぬりつぶされていた。いったいどうしたのと尋ねると、守君ニコニコして、あのね先生、飛んでいるうちにすごい嵐にあったんだよ。わたしは心打たれて、黙って守君の頭をなでた」
 というような、日記が夕ぐれ近くまでのわたしの仕事となる。
 ひとクラス五十五、六名の生徒のうち、毎日三人か四人はどうしても印象に残らない子供がでてくる。そんなときには、翌日第一時間目にわたしはその記憶になかった子供たちに、質問をしたり本を読ませたりする。これがわたしの、受持教師としての心ひそかなおわびであったのだ。
 わたし自身はかなり熱心な教師のつもりであったし、生徒をふかく愛しているつもりでもあった。だが、一課終るまでに必ず、国語なら、クラス全員に朗読させるとか、算数なら、問題のわからない子を必ず残して、放課後教えこむとかした。これは、生徒たちにとって甚だ迷惑な教師ではなかったかと思う。
 彼らにはただ無闇むやみにきびしいだけの先生に思われたかもしれない。そんなことのひとつに、こういうことがあった。
 クラスに土井どい芳子よしこという生徒がいた。その時芳子は四年生であったが、各課目とも、成績がよく、特につづかたが上手であった。かなり大人な感情を持っているのを、受持教師として、わたしはたのもしく思っていた。
 ある日の遊び時間のことであった。その子を中心に、四、五人の子供が石けりをして遊んでいた。すると、ひとりの生徒がやってきて、
「わたしも加てて」
 と頼んだ。加ててとは、仲間に加えてちょうだいということである。その子は家も貧しく、成績もよくはなかった。
「知らないもん」
 と、土井芳子はそっけなく答えた。
 そばでわたしは他の生徒たちと、縄とびをしていたが、二人のようすに注意を払ってみていた。
「加てて芳子ちゃん」
 ことわられたその子は、なおも嘆願した。しかし今度は、芳子は何も答えずにその子の顔をみているだけであった。
「加てて、ねえ、加てて」
 その子は余程石けり遊びをしたかったのであろう。三度四度と嘆願するが、芳子は、
「知らんもん」
 と言ったまま、もうその子の方をみようともしなかった。他の子供たちは、いわば女王に仕える侍女じじょのような態度で、何の口出しもしない。
「芳子ちゃん、一緒に遊んであげなさい」
 わたしが言うと、芳子はだまってうつむいたまま答えない。その時、第三時間目の始業のベルが鳴った。
 教室に入ったわたしは、教科書を開かずに、ず芳子の名を呼んだ。
「芳子ちゃん、一緒に遊ぶことができないのなら、一緒に勉強しなくてもいいんですよ」
 わたしのきびしい言葉に、芳子はハッとしたようにうなだれた。
「お立ちなさい。芳子ちゃんは勉強しなくてもよろしい」
 芳子は泣きだした。
「芳子ちゃんと一緒に遊んでいた人たちは、なぜ加ててと人が言った時、加ててあげなかったのですか」
 そうは叱ったが、その子供たちはそのまま机にすわらせておいた。芳子は泣いて謝ったが、わたしは決して許そうとはしなかった。この賢い子が、今身にみて覚えなければならないことを、わたしは叩きこんでおきたかった。とうとうその日は、芳子を教室の隅にすわらせたまま自分の席には戻さなかった。
 翌日、翌々日と三日間遂に芳子は自分の席に戻ることができなかった。
 わたしは、心ひそかに芳子に期待していたのである。貧しいとか、成績が悪いとかいうことで、人間を差別してはいけないということを、少女のうちにしっかりと胸に刻みこんで欲しかったのである。
 考えてみると、芳子には三日間もそんな罰を加える必要はなかったのだ。利口なだけにすぐに芳子はわたしの気持をわかってくれたはずであった。だが、わたしも若かった。芳子に期待する余り、三日間もその席にすわらせなかったのは、行き過ぎであった。
 けれども、わたしは真剣であったのである。そして恐らく、遊びに加えてもらえなかった子供が、余りにもかわいそうで、わたしは心からいきどおっていたのかもしれない。
 自分は真剣なつもりで教育をしていたが、しかし、本当のところ、まだ教育とは何かということを、よくわかってはいなかったのではないかと思う。もし、教育ということが、どんなものであるかを知っていたならば、わたしは決して教師にはならなかったにちがいない。

   (二)

 満十七歳にならないで、小学校の教師になったわたしの最初の赴任校は、ある炭鉱街にあって、四十人ほどの職員がいた。その学校は、はなはだ変わった学校であった。
 第一に、その出勤時間の早いこと、午前五時には校長はじめ何人かの先生が既に出勤している。本当は六時半までに行けばよいのだが、校長が五時には出勤しているからである。
 ある先生が、うす暗がりの校庭にほうきを持つ校長の姿に、
「すみません、おそくなりまして」
 と言ったところ、
「あんたはいつもすまんというが、わしより早く来れないのかね」
 と言われたことを、去年も思い出話の中で聞いた。
 何しろ、戦時中のことである。国中がどこか狂っていたような時代であったから、このような学校もあったわけだろう。午前五時から六時頃まで奉安殿ほうあんでんの回りや、校庭はきれいにそれこそ箒の目が立てられる。その箒の目を踏んで登校する時の気のひけたことを今も忘れない。
 午前六時半から、七時までは修養の時間とか言って、全職員は自分のための修養の本を読むのである。七時には職員朝礼である。それは教員に賜わった勅諭ちょくゆ奉読ほうどくし、教育歌をうたう。
真清水ましみずの、よしにごることがあろうとも
 そこに咲く花を清く育てるのがわが使命である」
 こんな意味の歌詞ではなかったかと思う。
 うたい終ると、当番の教師が感話をする。たとえば次のような話が印象に残っている。
「雪のふる日、校庭を横切るのに、真直まっすぐに歩こうと、目標を定めて歩いて行く。目標の所に来て振り返ると、真直ぐに歩いたはずなのに自分の足跡はひどくあちこちに曲がりくねって歩いている」
 この話をした森谷武という先生は、特に国語の力のあった先生で、わたしも尊敬していた。この言葉は、女学校を出たばかりの十七歳のわたしには、非常に含蓄がんちくのある、教えられる言葉であった。
 こんな感話の後、校長が感想を述べる。朝が早いということは辛かったが、この職員朝礼はわたしにはおもしろい三十分であった。
 七時から七時半まで生徒の自習時間、七時半から朝礼で二千名以上の生徒が整列して、運動場に集まり、そしてまた教室に戻るだけで優に三十分はかかる。授業の始まる午前八時には、コックリコックリ居眠りをする先生がいるという伝説が生まれたほど、何しろ出勤時間の早い学校であった。
 出勤時間ひとつをとってみても、まことに恐るべき学校であり、また時代であったといえるように思う。他はおして知るべしで、何かとおもしろい(今になってはおもしろいといえるが……)話がたくさんある。
 とにかく、女学校を卒業して、いきなり飛びこんだ社会が、出勤時間からかなり異状であったにしろ、教師というものはこのように朝早くから修養につとめ、勉強するものであるということを、疑いもなくわたしは受け入れていた。
 そして、そのことは若いわたしにとって、薬にこそなれ、大した毒にはならないようにその時は思っていた。
如何いかなる英雄も、その時代を超越することはできない」
 ということわざがある。まして、英雄どころか、西も東もわからぬ小娘には、その時代の流れを的確につかむことはできようはずはなかった。
「人間である前に国民であれ」
 とは、あの昭和十五、六年から、二十年にかけての最も大きなわたしたちの課題であった。今、この言葉を持ち出したならば、人々はげらげらと笑い出すことだろう。
 そうした時代の教育は、天皇陛下の国民をつくることにあったわけである。だから、この教育に熱心であるということは、わたしの人間観が根本から間違っていたということになる。
 敗戦がわたしにとって、どんな大きなものであったかと前に記した理由がわかってもらえるだろうか。
 敗戦と同時に、アメリカ軍が進駐してきた。つまり日本は占領されたのである。そのアメリカの指令により、わたしたちが教えていた国定教科書の至る所を、削除しなければならなかった。
「さあ、すみるんですよ」
 わたしの言葉に、生徒たちは無心に墨を磨る。その生徒たちの無邪気な顔に、わたしは涙ぐまずにはいられなかった。ず、修身の本を出させ、指令に従いわたしは指示する。
「第一ページの二行目から五行目まで墨で消してください」
 そう言った時、わたしはこらえきれずに涙をこぼした。かつて日本の教師たちの誰が、外国の指令によって、国定教科書に墨をぬらさなければならないと思った者があろうか。このような屈辱的なことを、かわいい教え子たちに指示しなければならなかった教師が、日本にかつて一人でもいたであろうか。
 生徒たちは、黙々とわたしの言葉に従って、墨をぬっている。誰も、何も言わない。修身の本が終わると、国語の本を出させる。墨をぬる子供たちの姿をながめながら、わたしの心は定まっていた。
(わたしはもう教壇に立つ資格はない。近い将来に一日も早く、教師をやめよう)
 わたしは、生徒より一段高い教壇の上にいることが苦痛であった。こうして、墨をぬらさなければならないというのは、一体どんなことなのかとわたしは思った。
(今までの日本が間違っていたのだろうか。それとも、日本が決して間違っていないとすれば、アメリカが間違っているのだろうか)
 わたしは、どちらかが正しければ、どちらかが間違っていると思った。
(一体、どちらが正しいのだろう)
 敗戦になったばかりで、日本の国は文字通り、上を下への大さわぎであった。わたしの勤めている学校にも、駐屯ちゅうとんしていた陸軍中隊があったが、敗戦と同時に、絶対服従の軍律はまるでうそのように破れ、上官をののしる者や、なぐる者さえ出た。
 昨日までは、上官の前では、直立不動でものを言っていた兵隊が、歩き方まで、いかにも横柄おうへいであった。
(昨日までの軍隊の姿が正しいのか。それとも今の乱れたように見える姿が正しいのか。一体どちらが正しいのであろうか)
 わたしにとって、切実に大切なことは、
「一体どちらが正しいのか」
 ということであった。
 なぜなら、わたしは教師である。墨でぬりつぶした教科書が正しいのか、それとも、もとのままの教科書が正しいのかを知る責任があった。
 誰に聞いても、確たる返事は返ってこない。みんな、あいまいな答えか、つまらぬことを聞くなというような、大人ぶった表情だけである。
「これが時代というものだよ」
 誰かがそう言った。時代とは一体何なのか。今まで正しいとされて来たことが、間違ったことになるのが時代というものなのか。
(わたしは七年間、一体何に真剣に打ちこんできたのだろう。あんなに一生懸命に教えてきたことが誤ちなら、わたしは七年をただ無駄にしただけなのだろうか。いや、誤ちを犯したということは無駄とは全くちがう。誤ちとは手をついて謝らなければならないものなのだ。いや、場合によっては、敗戦後割腹かっぷくした軍人たちのように、わたしたち教師も、生徒の前に死んでびなければならないのではないだろうか)
 そんなことを考えているうちに、わたしは、わたしの七年の年月よりも、わたしに教えられた生徒たちの年月を思った。その当時、受け持っていた生徒は四年間教えてきた生徒たちであった。人の一生のうちの四年間というのは、決して短い年月ではない。彼らにとって、それは、もはや取り返すことのできない貴重な四年間なのだ。その年月を、わたしは教壇の上から、大きな顔をして、間違ったことを教えて来たのではないか。
(もし、正しかったとすれば、これから教えることが間違いになる)
 どちらかわからぬことを教えるより、いさぎよく退職して、誰かのお嫁さんにでもなってしまおうか。そんなことを考えていた矢先に、わたしの前に現れたのが、先に記した西中一郎だった。
(誰かのお嫁さんにでもなろうか)
 という安易な態度で彼と婚約しようとしたわたしに、何者かが警告しようとしたのでもあろうか。結納ゆいのうの日に、わたしは脳貧血を起こして倒れたのである。
 そして、間もなく肺結核でわたしはほんとうに倒れてしまったのである。

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