
小説『奈落の声』について(概要)
小説宝石1969年4月
出版 … 『病めるときも』朝日新聞社1969年10月
現行 … 『病めるときも』角川文庫・小学館電子全集
清志は、旅廻りの一座で父と共に全国をまわっている。訪れたK町で客寄せの口上を述べている時だった。差し入れられたアイスキャンデーを見て、母親との悲しい別離を思い出し、こわばる清志。その緊張の場面を救ったのが、真樹子だった。
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作品本文の冒頭
「一」
あと二、三日で九月だというのに、北国には珍しい暑い午後だった。石狩平野から四十分程支線を入った東に、この炭礦街のK町があった。山間を東西に走る一本の道があり、炭塵に黒く汚れた小さな川が街を縫っていた。この一本の道から、左右に幾本もの道が山腹に這いのぼり、その斜面には炭礦の社宅や、ハモニカ長屋や、学校、病院、神社などが建っていた。人口二万に満たない町だが、山間を走る道筋には、旅館、商店、映画館、飲食店、美容院、会社の購買店、住宅などが並んでいて、いつも結構賑わっていた。わけても駅前通りは一番活気がある。
「金鵄輝く日本の……」
駅前の店頭から流れる紀元二千六百年の祝歌が一段と日曜の街を浮き立たせていた。汽笛がのぶとく響いた。午後の汽車が着いたらしい。と、汽笛が合図のように、三味線と太鼓の音が、かしましい程賑やかに聞えて来た。アイスキャンデー屋や、魚屋や、八百屋に群がっていた客たちが、一様にふり返った。
「沢野清十郎一座」ののぼりを持った半てん姿の若い男を先頭に、七、八人の男女の一隊である。のぼりにつづいて、ちょんまげ姿の、太鼓を叩く男、三味線を持った鳥追姿の女。次に深編笠の背の高い虚無僧、道中姿のやくざに扮した男、派手な矢絣のご殿女中などがつづく。その中にひときわ目立ったのは、若衆姿の十歳位の少年である。
人々が寄って来た。「どん」と大きく太鼓が鳴りひびき、三味線の音が消えた。
「東西、東西」
思いがけなく、愛らしく凛とした声が、人々の耳を驚かした。深編笠、虚無僧姿の座長、沢野清十郎の一人息子、清志の幼い声であった。
「ここもとごひいき様、並びにご本家さまの御招待にて、私共沢野清十郎一座、ご当地に初お目見得に参上いたしました」
「どん」と合の手の太鼓が鳴り、立ちどまった群衆から拍手が湧いた。真っ白にぬられた少年の額に、前髪がかすかに揺れた。
そしてそのつぶらな瞳は、ぱっちりと見ひらかれたまま、商店街のうしろに連なる低い山並に向けられていた。
「さて当座は、今夕六時半より九時半まで、錦座におきまして芝居を取り行ない、ごひいき様のごきげんを取り結ぶことと相成りました」
「いいぞ、いいぞ」
ひる間から酒でも入っているのか赤ら顔の男が、浴衣の片肌を脱いで半畳を入れた。五十過ぎの男だった。眉間にたてじわが一本深く刻まれていて、それがまるで墨で書いたように、きわだって見える。部厚い唇がへの字を描き、笑うとその口端が益々下る。
「さて演し物は……菊川三郎先生の名作『母恋鳥』、野村藤堂先生の名怪談『お静灯籠』。なお出演は、当座涙の名子役沢野清志……」
「おや、涙の名子役ってのはお前のことかい」
先程の男がからかうように、顔をさしのべて清志をのぞきこんだ。群衆がどっと笑った。男は得意そうに、左右を見返った。清志は困ったように頭をかいた。そのうしろで、深編笠の座長が、鋭く目を光らせたのを、誰も気づかなかった。清志は再び口上をつづけた。
「……その外……」
清志は首をかたむけた。思いがけないやじに、口上を忘れてしまったのだ。
「……なお……」
「なお、それからどうしたい?」
「幕あいのお時間を拝借しまして、当座花形女優たちの踊りなども、数たくさん取りそろえてございます」
清志は、少し飛ばして、思い出した所からつづけた。
「つきましては皆様方、おぼっちゃん、お嬢ちゃん、おとうさんおかあさんは申すに及ばず、おじいさまおばあさま方まで、ご近所共々お誘い合わせの上、賑々しく御来場くださいますよう、七重のひざを八重に折り、隅から隅まで、ずいっとお願い申しあげまする」
再び太鼓が「どん」と鳴り、拍手が湧いた。
「よう、あんちゃん、これを食いな」
いつの間にか、すぐそばの店から買ったのであろう、赤ら顔の男が黄色いアイスキャンデーを、ぐっと清志にさし出した。清志はキャンデーを見ると、なぜかハッとうつむいた。
「遠慮はいらんよ、食いなったら、食いな」
清志は顔を上げて首を横にふった。
「これはまあ、ご親切に。清志ちゃん、さ、早くちょうだいするもんだよ」
鳥追姿の女が、三味線の撥で清志の背をこづいた。清志はムッとしたように女を見て、
「ぼく、いりません」
と、切り口上に言った。女のようなやさしい口もとが、ぴりぴりとふるえている。
「なにい、いらないと。なまを言うな、なまを。この暑い日盛りに、小んまいお前がかわいそうだと思えばこそ、親切にこうして買ったんじゃないか。おれの気持を受けられねえってのか」
眉間のしわが一層深くなり、その両側の肉が盛り上るように迫った。
「でも……ぼく、アイスキャンデーなんて、きらいなんです。アイスキャンデーなんて……」
つけまつ毛のように長いまつ毛を清志は伏せた。
清志はアイスキャンデーと聞いただけで、身ぶるいがする。去年の七月だった。一座は北陸地方の巡業を終えて、十日程東京に帰っていた。清志たち親子三人は、東京荒川の祖父の家にいた。祖父の家は、僅かふた間の四軒長屋で、ごみごみとした路地の中程にあった。祖父は軍需工場の夜警をしていて、いつも夜は留守だった。父親は、一座の者が寝泊りしている安宿に、毎夜のようにでかけては、酒を飲んで帰って来た。
その夜も家の中には、清志と母のクニしかいなかった。むしむしと暑い晩で、家の中までどぶの匂いが漂っていた。いつもは電灯の下で縫い物をしている母が、その夜に限って、赤茶けた新聞紙の貼ってある壁にもたれて、ぼんやりとしていた。しかし清志は、そんなことには頓着なく、新聞紙を折って飛行機を作っていた。
「清志」
母が清志に顔を向けた。卵のような輪郭の、目もとの涼しい顔立ちである。雪のように白いと、よく人に言われるその肌が、今夜は青ざめていたが、子供の清志は気づかなかった。
「なあに、かあさん」
できあがった飛行機を、ついと飛ばして清志はその後を追った。
「かあさん、よく飛ぶだろう」
清志は流線型に翼を工夫したのだ。得意だった。
「よくできたね清志、ほうびにアイスキャンデーを買ってあげようね」
「アイスキャンデー?」
声が弾んだ。
「何本さ、かあさん」
「三本」
「三本? ほんと、うれしいな。ぼくに二本くれるんだね」
母はうなずいて、古びた帯の間から財布をとり出した。金をもらうやいなや、清志は玄関を飛び出した。玄関と言っても、半坪程の土間である。
「清志、清志」
その背に、母の声が迫った。
「なあに、かあさん」
駈けもどった清志の顔に、母は淋しい微笑を向けた。
「気をつけて……ね、気をつけて行くんだよ」
清志は、なんだというように、暗い路地を駈けて行った。いくら暗くても、つまずいたことなんかありゃしないと清志はおかしかった。
アイスキャンデー屋は、表の電車通りの角にある。一町半程行った所だった。その店先の電灯に、灰色の蛾が群れていた。三本のキャンデーから、白い水蒸気がほわっと漂った。
(どうして冷たいのに湯気みたいに、白く出るんだろ)
清志はそんなことを思いながら、キャンデーをしっかりと両手に握って家に帰った。がたぴしする戸を少し手間どってあけた。
「かあさん、買ってきたよ」
だが母の返事はなかった。便所にでも行っているのだろうと、清志は格別気にもとめず、しめった畳にぺたりとすわって、すぐにアイスキャンデーを食べ始めた。一本を食べ終って、
「かあさん」
と再び呼んだ。やはり返事がない。
「長い便所だな」
そう言いながら、清志は二本目に手を伸ばした。とけ始めたアイスキャンデーを、ぺろぺろと舌の先でなめながら、清志はその味を楽しんだ。この、とけ始めた時のアイスキャンデーが、清志には一番うまい。しかも今日は、二本も食べることができるのだ。二本も買ってくれることなど、めったにない。巡業に出て、大汗をかいた後でも、母は腹に悪いと言って、一本しか買ってくれなかった。二本も買ってくれるのは、お盆ぐらいなものである。
いま、二本目を惜しみ惜しみ食べ終って、清志はふいに母が気になった。
「かあさん、早く食べないと、とけちゃうよ」
清志はアイスキャンデーをちゃぶ台の上において、立ち上った。便所に行って見たが返事がない。
「かあさん、どうしたの」
清志は戸をあけた。母の姿はなかった。
「かあさん」
清志の声が、うろうろとオクターブが高くなった。たったふた間の家である。さがす手間も何もない。それでも清志は、次の間の一間の押入をあけてみた。無論いるはずもなかった。清志は不安にかられて外に出た。暗い路地に、家々の灯が淡く洩れているだけである。
「かあさーん」
清志は泣きたくなった。母が夜出て行く所と言えば銭湯だけである。清志は、表通りの銭湯にも駈けて行った。だがそこにも母はいなかった。うす暗い電灯の下のちゃぶ台に、アイスキャンデーがとけて、べたべたにぬれていた。
この日限り、母の姿は清志たちの前から消えた。清志はそれ以来、アイスキャンデーを見るのも嫌になった。
「お前のおっかあはなあ、全くのろくでなしだ。男を作って逃げたんだ」
父は酒を飲むごとに、清志に向って憎々しげに言った。ある時は、ふいに、清志を引きすえるようにして、女のかつらをかぶせ、
「ふん、クニの奴!」
そう言って清志をなぐったこともあった。巡業に出ても、座員の前で、父はよく同じ言葉をくり返した。
男を作るという言葉は、清志には最初何のことかわからなかった。男の人形を作ることかと、清志は何となくそんなことを想像していた。だが母が人形を作る姿を見たことはない。
一年たったこの頃では、この言葉が清志にもおぼろげながらわかって来た。それまではあまり耳に入らなかった、女を作るとか男を作るとかいう言葉が、急に清志の耳につくようになったのだ。
「おい、小僧。どうしてもこれを受けとれねえってのかい」
アイスキャンデーがとけかけて、ぽとっと雫が道に落ちた。乾ききった土が、白い灰のように、小さく埃をあげた。
「まあ、だんな、すみませんねえ。この子は恥ずかしがっているんですよ。代りにわたしがちょうだいさせていただきます」
三味線の女が、再び撥で清志の背をこづいたが、撥を左手に持ちかえて、愛想よく男の方に手を出した。
「いいや、おれはお前さんにやるんじゃない」
男は意地になって、ぽとぽとと雫のたれるアイスキャンデーを清志につき出した。虚無僧姿の座長が、一歩男に近よった時だった。清志はちらっと男を上目使いに見たかと思うと、アイスキャンデーをひったくって、やにわに地面に叩きつけた。
「何てことをするんだ」
男の手が清志に伸びた時、ひょいと男の前に立ちふさがった女がいた。紺のワンピースを着た、若い女である。
「近藤さんのおとうさん。子供を相手に何ですか」
高飛車な口調だった。むき出しの腕が、ふっくらとした、まだ二十そこそこの若い女性である。
「いやあ、これは……」
男は頭をかいた。
「しかしね、いくら子供だって、人のやったものを、いきなり地面に叩きつけるなんて、めんこくもねえ」
とり囲んだ人たちは、おもしろくなって来たというように、女と男とそして清志を代る代る眺めている。旅役者の一行だけが、真っ白い顔を日の下にさらして、無気味に、虚無僧のうしろに沈黙していた。ひとり虚無僧はうすら笑いを浮かべて二人のやりとりを眺めていた。
「近藤さん、あなただって、ついこの間、ほら、おはぎをこればっかりはごかんべんって、いくらすすめたって、おあがりにならなかったじゃありませんか。誰だって、かんべんしてほしいものが、一つや二つはあるんじゃない」
はきはきした口調だった。丸顔の頬に大きな笑くぼが絶えずうかぶ。
「近藤さん、およりにならない」
女は急にやさしく言った。
「本当にまあ、すみませんでしたね」
三味線の女が二人に頭を下げ、虚無僧が、
「すまなかったな、おっさん」
と声をかけた。それは謝ったというより、からみつくような陰気な声だった。
「どん」と太鼓が鳴った。いまが潮時と見たのだろう。三味線が賑やかに鳴り、旅役者の一行はその場を離れた。