
小説『石の森』について(概要)
連載 … セブンティーン1975年2月〜1976年2月
出版 … 集英社1976年4月
現行 … 当文学館復刊シリーズ、小学館電子全集
「わたし」(主人公・早苗)の心をたどる物語。おもな舞台は札幌だが、早苗は、遠く道東の野付半島・尾岱沼まで足を伸ばすことになる。娘を前に酒に浸るママ、すぐ書斎に閉じこもるパパ。早苗の心配は尽きない。ある日、早苗は学校帰りに、ママが見知らぬ男と車に乗っているのを見かける。帰ってからさりげなく尋ねても、ママは語ろうとしない。妙に笑い、ウイスキーをあおっていた。早苗は車のナンバーを調べ、持ち主が詩人であることを知った。なんとその詩人は、パパが勤務する会社の社長の息子だった……。
大人になること、愛を知ること。その残酷さと尊さを知っていく少女の、傷つき揺れる青春の狂気を描く。
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作品本文の冒頭1章
[第一章 燈のない部屋]
一
その人はいっていた。
「人間は、本当に男と女の二種類しかないのだろうか。一旦こう考えると、会う人会う人が、男でも女でもなく見えて、仕方がないのよ」
どこの人かは、わからない。黒い、ほんとうに見事に黒い髪が、腰のあたりまで長く垂れ、そのまつ毛も、濃く長かった。が、唇は冷ややかなほどにうすく、鼻の形も、特にいいというほどではなかった。美人という顔ではないかも知れない。
が、その人が、すっと背をそらせて、ゆっくりと、喫茶店サイロに入ってきた時、わたしは食べかけていたアイスクリームのスプーンを、取り落としそうになったほど、はっとした。
着ているものは、V字ネックの、飾り気のない白いブラウスと、白い細いプリーツスカートだった。よく見れば平凡な服装なのに、その人はひどく妖しい雰囲気を持っていた。
多分、あの人は、何を着ても、あるいは全く何も着ていなくても、あのふしぎな雰囲気を持っている人なのではないだろうか。
わたしは、斜め向こうの席にすわったその人に、ぼんやりと見とれていた。その人の連れは、二人の男だった。一人は大学生らしい長髪の青年で、ジーパンをはいており、一人は三十近い紳士タイプの人だった。
主にジーパンが一人で話をしていた。何を話しているのかは、席が遠くて聞こえなかった。時々その人は、ひっそりと笑い、時にはきびしい顔をしていた。
「人間は、本当に男と女の二種類しか……」
という言葉は、わたしがその傍のレジで、お金を払っている時に聞いたのだ。その声はまろやかで、一種の気品があった。
あの人は札幌の人だろうか。
帰ってきたら、まだ八時だった。ママが一人でウイスキーを飲んでいた。ママはわたしに、
「ね、早苗、一緒に飲もうよ」
という。いやだといえば、ママは淋しいだろう。わたしはそう思って、
「いけないわ、ママ。誘惑しないで」
といいながら、コップを出した。
「オンザロック?」
ママはうれしそうに、氷をコップの中に入れた。氷がひどく侘しい音を立てた。
「ね、早苗。早苗って、こわい子だわねえ」
しばらくしてママがいった。
「どうして?」
「だってさ、早苗は一度だって、飲んべえのママを非難したこともなければ、どうして飲むのって、聞いたこともない」
ふいにママの目に涙が盛り上がった。
「ママ、どうしたの? ママはわたしに何かいわれたいの」
わたしはママに、聞きたいことが山ほどある。が、わたしは一度だって聞いたことはないのだ。ママがお酒を飲みはじめたのは、わたしが中三の頃からだ。中三のわたしに、ママは、
「ね、一緒に飲もうよ」
って、いったのだ。ママはきっと、わたしに白い目で見られやしないかと、おそれていたのだ。だから共犯者にしてしまいたかったのだ。
パパは酒もタバコものまない。パパは読書が好きで、すぐに書斎にとじこもってしまう。でも、わたしは知っている。パパは時々、本も読まずに、ぼんやりと何か考えていることを。
あの時……わたしがママにお酒を教えはじめられた頃だから、やはり中三の冬だった。土曜の午後、書斎に入ったきりのパパに、わたしは熱い紅茶を持って行った。
軽くノックをしてドアをあけると、もううすぐらくなっているというのに、燈もつけずにパパは机に向かっていた。
「パパ、お紅茶よ」
というと、いつもは「ありがとう」というパパが、
「うん」
といったきりで本を見ていた。もう、字も見えないうす暗さだということに、パパは気づいていないのだ。
わたしは燈りをつけずに、そのまま部屋を出た。あの時、パパは泣いていたからだ。
(パパが泣くなんて?)
ショックだった。わたしはそれまで、パパの泣いた姿を見たことがない。
茶の間にもどると、ママがいった。
「パパ、本を読んでいらした?」
「ええ、もう夢中よ。パパったら」
「そう、電気をつけずに?」
わたしはギクリとした。ママはパパの部屋が暗いのを、ちゃんと知っていたのだ。きっとパパは、それまでも、時々うす暗い中で本をひらいていたのだろう。
いったい、パパは何を考えていたのだろう。でも、わたしは、
「パパ、電燈もつけずに、何を考えていたの」
なんて、聞けない女の子なのだ。
誰だって、人にはいえない思いというものがある。親子四人、同じ屋根の下にくらしてはいるけれど、いったい、お互いどれほど、お互いを知っているというのだろう。パパやママが、何を考えているかわからないように、パパやママだって、わたしが本当は何を考えて生きているかなんて、決してわかってやしない。
兄だって、わたしを知らない。わたしも、兄が、何を考えているか、わからないように。何も知らない同士が、親子きょうだいで、そしてもしかしたら、何もかも知っていると錯覚していたとしたら、これは悲劇だ。いや、喜劇かも知れない。
兄貴ときたら、部屋の壁に大きなヌードを三枚も貼って、いつもへらへらと笑っていて、そのくせ、
「原水爆禁止運動にカンパをねがいまあす」
と、街頭に立ったり、盲人ライブラリーのために「日本の歴史」全二十巻を、グループでテープに吹きこんだりしている。
この間わたしの部屋に来て、
「おめえは少しおくてだぞ。十九という年で、まだ気の利いた恋人もいないなんてよう。おれの女の子なんか、十八やら十七やら、いや、十四の子だっている」
とでたらめをいっていた。一度だって、わたしに原水爆の話も、盲人ライブラリーの話もしたことがない。父母だって「日本の歴史」のことが新聞に出て、はじめて自分の息子たちが、そんなことをしていたのかと驚いたのだ。
家族というのは、お互いのことが、何もわからなくても、いいものなのだろうか。わたしだって、本当はママに聞きたいことがたくさんある。たとえば十日ほど前、ママが一緒に車に乗っていたあの男は誰なのか、ママとどんな関係があるのか、わたしは知りたいのだ。
少し頭が痛くて、早退けした日だ。大学からの帰りのバスが、駅前の赤信号で停った時、少しおくれて、隣にベンツが並んでとまった。わたしは、ちょうどそのベンツのほうを向いて立っていたので、何気なく車の中を見た。
ハッとした。助手台にママがいたのだ。ママは、あの大好きなグリーンにすすきを黒く散らした着物を着て、運転台の若い男性と親しげに何か話していた。きりっとした眉の、どこか淋し気な横顔の男の人を見た時、わたしは正直いって、ママに嫉妬を感じた。わたしは咄嗟に車のナンバーに目を見やった。その番号を、わたしは頭に入れたのだ。
家に帰ると、ママはまだ外出着のまま、ぺたんと座敷の畳の上にすわっていた。わたしを見ると、ママはひどくおどろいて、
「どうしたの? 体がわるいの」
って、いつもより、それはそれはやさしくしてくれた。
「ママ、どこかへ行ってきたの」
と聞きたかったが、わたしはそ知らぬふりをして、
「どこへ行くの」
といった。ママは、
「ちょっとね、パパのご用で行ってきたの」
と早口でいった。ママは、めったに早口になどなりはしない。いつも、少しゆっくりと、やや甘ったるい調子でものをいう。
あの晩、ママはメロメロになるほどウイスキーを飲んだ。そしてゲラゲラと笑い、いつものようには泣かなかった。
(ママ、あのベンツの人は誰なの)
わたしは、あの日、幾度ママに聞こうと思ったかわからない。でも、ママ、わたしは聞かなかった。その代りわたしは、記憶していた番号を、電話で自動車協会に問い合わせたのだ。ママ、ゆるして。
ママ、あの方は新進の詩人、沢謙三さんで、パパのつとめているK商事の社長の息子さんだったのね。
ママは、わたしが一度もママを非難したことがない、どうして酒を飲むのかと尋ねたことがないって泣いた。でも、わたしは知りたがり屋だ。人間はみんな穿鑿好きだ。いやらしい目を持っているのだ。いやらしい目を持っているのだ。でも、わたしはほんの少しプライドがある。ほんの少しつつしみがある。ほんの少し、やさしさがある。どれもこれも、ほんの少しだが、しかし、それらの少しが重なって、わたしは無理に尋ね出そうとはしないのだ。
二
十九歳。それは二十歳の一年前の年ということではない。十九歳と、二十歳とは全く質的にちがうのだと、サチ子も、ヨリ子もいう。
「どうちがうのよ、質的に」
といったら、
「早苗は、十九歳までは、殺人をしても少女Sなのよ。刑も軽いわ。でも、二十歳になったら、たとえ万引しても少女Sとはいわないわ。三木早苗なのよ」
そんなことは、みんながいう。陳腐すぎる。第一、十九歳と二十歳で、人間が質的に変わるなんて、サチ子もヨリ子もどうかしている。決定的なちがいだなんて、ありはしない。十九歳の人間が、二十歳の人間より大人の場合だってあるのだ。
「それに早苗、十代と二十代では全くちがうわ。十代には、まだ十一か二の子供もいるじゃない。でも、二十代には子供はいないわ」
だからどうだというのだろう。十一か二の時だって、わたしは人を好きになるという、あのやさしく切ない感情を知っていた。
(これはいってはいけないことだ)
ということだって、もう十一か十二でちゃんと知っていた。大人のほうが、ずっとデリカシィに欠けていて、ずいぶんと無遠慮なものの言い方をする。もしかしたら、子供のほうが大人ではないかしら。
わたしは、十九歳と二十歳はいかにちがうかという問題に飽きていった。
「ねえ、もしもよ。もしも、月も太陽と同じぐらいの熱を地球に与えるものだったら、どうなると思う」
「夜がなくなるわよ。夜ひる照らされて、わたしたちは黒人のようになるわよ。これ以上黒くなったら、わたしはゼッタイ自殺する」
色の黒いヨリ子は、ゼッタイというところに力を入れて笑った。サチ子は、
「早苗は子供ねえ。そんな質問、やっぱり十代の子のいうことよ。二十歳になったら、そんな子供っぽいことをいう人はいないわ」
子供で結構。大人とは、いったいどういうことなのだろう。蟻の行列を長いこと、じっと見つめているあの純粋な探究心。あんな純度の高い心境にあるのが子供だとしたら、子供は、何と気高い世界に生きていることだろう。
大人というのは、もしかしたら、金、地位、名誉に無関係では、勉強も仕事もできない人のことをいうのではないだろうか。
わたしは時々パパがきらいになる。ママがお酒を飲んでも、駄々をこねても、一言も叱らないパパがきらいなのだ。いや、叱れないパパがきらいなのだ。ママの不幸は、きっとパパに無関係ではない。わたしは、女を不幸にするような男はきらいだ。ママが泣くと、わたしはパパに憤りが湧く。
でも、そんなパパだけれど、パパの読書好き、あれは、金にも、地位にも、名誉にも無関係だと思う。パパにはうすぎたなさがない。
パパはフランス語が、英語よりも上手で、書斎に並んでいるモーリャックっも、ジイドも、スタンダールも、みんな原語だ。
わたしは、三つ四つの頃から、中学校に入るまで、パパに抱かれて寝た。パパの体はあたたかく、息にかすかな香気があった。たばこをのまないパパの匂いは、お茶のようないい香りがした。
パパはわたしをそっと抱きしめて、
「ボンジュール、マドモアゼル」
といったことが幾度かある。また、ある時は、
「アデュー、アデュー、アデュー」
と、いいつづけたこともある。いま考えると、そんな時の父は、ひどく淋しそうだったような気がする。
パパはまた、毎朝食事の前に、わたしを連れてよく散歩に行ったものだった。パパは多分、フランス文学の影響でもあったのだと思う。道や家に、よく名をつけた。
「さ、喜びの森に行こう」
とか、
「第五シンフォニィの川に行こう」
といった調子だった。喜びの森は、今はもう団地になってしまったが、あの頃は白樺と柏の林で、紅葉の頃などは白樺の幹が、正に歓喜しているようだった。
第五シンフォニィの川は豊平川で、この広い川原で、父は時々、フランス語(だと思う)で静かに歌っていたことがあった。
それから、「涙の谷」という小さな、いつもじめじめしていた窪地や、「めぐりあいの橋」という何の変哲もない木橋もあった。
パパは、兄とわたしの二人の子がいても、少年のようにみずみずしい人だったと思う。あのパパが、どうして自分の家を「涙の谷」にしてしまったのか、わたしにはわからない。いや、わが家がすべて「涙の谷」というわけではない。ママは「涙の谷」であっても、お兄さんは「陽のあたる丘」わたしは「惑いの森」パパは「沈黙の畔り」にいる。
パパはいつから変わったのだろう。いや、一見パパは変わらない。いつも静かで、いつもジェントルマンだ。が、どこかが変わって、それでママが泣くようになったのだ。
あの日の食卓は凄かった。凄いというのは、きっとああいうことだろう。
会社から帰ってきたパパが、いつものように口をゆすいで、手を洗い、食卓についた。ママは、
「お帰りなさい」
ともいったし、にこやかに、
「あたたかくなりましたわねえ」
ともいった。が、食卓にはご飯と味噌汁だけだった。しかも空の汁だ。実は何もない。料理自慢のママは、どんなに忙しくても、魚か貝のフライに野菜サラダぐらいはつけるのだ。それにポタージュか味噌汁は無論欠かさない。忙しくなければ、その上、いもの煮ころがしだの、トンカツだの、まるっきり作法に反したメニューだが、とにかく食卓を賑わすのだ。
が、あの日は、ご飯と実のない味噌汁をおいただけで、にこにこしていた。パパはだまって食べた。わたしはパパが気の毒で、おのりを焼いたり、目玉をつくったりしたが、ママは平然としている。
珍しくその日は早く帰ってきた兄貴が、
「ママ、ママはきっと、インドやアフリカの、飢えている人のことを考えたのだね。うん、こういう食事も、ぼくたちには時に必要なんだ」
といって、わたしに、
「ぼくは、のりも目玉もいらない」
と断わった。ママは何もいわずに、にこにこしていたが、パパが黙々と食べているのを見ると、突然、パパの茶碗をとり上げて、床にはっしと投げつけてしまった。
パパはママをじっと見つめていたが、それは少しも怒ったまなざしではなく、むしろ、あわれみを乞うような、悲しい目の色であった。兄は黙ってわたしをつつき、向こうへ行こうと目で合図した。きっと、この場はママとパパの二人にしておいたほうがいいというのだろう。
兄と二人で外へ出ると、五月の夕焼空が、かなしいほど美しかった。兄は例によって、
「おい、あの女の子のふっくらとした足を見な。男は全く、女の足にほれるんだなあ」
と、ちゃらんぽらんなことをいっていた。
わたしはふっと、髪の長いあの妖しい人を思い出していたが、別のことをいった。
「ね、お兄さん、小指は何の役に立つの?」
といったら、
「小指がなきゃ、指きりげんまんができないじゃないかよう」
と兄が笑った。
「なあるほどね。でも、どうせ指きりしたって、人間はたいてい約束を守らないじゃないの。守りもしない約束なら、はじめからしないほうがいいわ」
「人はね、約束は守りたいのさ。でも、いろいろと家庭の事情でさ、守れないのさ。でもね、そうとわかっていて、約束してほしいものなんだ、人間はね」
二人は豊平川の堤防に上がった。川に夕焼が映っていた。
父のかつての「第五シンフォニィの川」は、挑むようにきらきら光っていた。二人は、子供の時のように、
「あした天気になあれ」
と、サンダルを投げた。何だか子供に返りたかったのだ。
兄のサンダルは裏返しになり「雨」。わたしのは表が出て「晴」となった。
三
どんなに親しい関係にあっても、それは、いつ崩れるかわからぬという危機を持つ。問題は、その危機を感ずるか、否かなのだ。親子にしても、夫婦にしても、友人にしても、恋人同士にしても、そして学園の教師と学生にしても。
決して、自分を裏切らないという存在はない。自分もまた、決して人を裏切らぬという確信のないように。
あれからずっと、毎日のように、わたしはあの人のことを思っている。喫茶店で会っただけの、あの行きずりの人が、なぜこんなにもわたしの心を捉えるのだろう。
あの日、あの人は白を着ていた。でもあの人は、本当は黒の似合う人だ。わたしはそんな気がする。どんな家に住んでいるのか。なぜか、彼女には家がないような気がする。一戸建も、マンションも安アパートも、あの人には似合わない。要するに彼女は、何かの妖精のように、海の上に寝ているなどというのが似合うとわたしは思うのだが。
ママはこの頃、お酒を飲まない。ひどく淋しい顔をして、せっせと庭の花壇をととのえたり、料理をつくったりしている。もちろん空汁なぞはつくらない。何か必死に耐えているようで、わたしは、
「ママ、かわいそうね」
と、その肩を抱いてやりたいような気がするのだ。
ママは、パパと結婚するまで、苦労をしたことのない人なのだ。生まれたままの、きれいな気持ち……人間は生まれた時から、心が純かどうかは、疑わしいけれど……で、人を疑うことを知らなかった人だ。
いや、パパと結婚してからでも、わたしが中三の時、つまり、ママがお酒を飲みはじめる頃まで、ママはそんな無邪気な人だった。だから、誰にでも好かれたり、誰をも好いた。ママは親切で、その親切も並ではなかった。こんなことがあった。
その日、ママは五時には街から帰ってくるはずだった。日曜日で、みんなはママが買ってくるはずの肉やら野菜やらを待っていた。が、ママは五時になっても、五時半になっても帰らない。もしかしたら交通事故にでも遭ったかと、不安にかられはじめた頃、
「ただいまあ、遅くなって、ごめんなさい」
とママは朗らかに入ってきた。
「どうしたの、ママ」
三人は玄関に飛び出した。パパはどんな時でも、あわてることのない人だから、飛び出すなどということはしないけれど、でも、その時ばかりは、そう形容してもいいほどの迎え方だった。
ママはのんびりと、
「あの、あそこでね、バスを降りたら、八十ぐらいのおばあちゃんが、青信号になっても渡れずに、うろうろしていたの」
「ママは、それで手を引いてやったというわけかい。でも、それだけでこんなに時間はかからないだろう、ママ」
心配していた兄は、常日頃に似合わず、不機嫌にいった。
「一旦は手を引いて渡ったのよ。でもね、本当によたよたしていらしてね。あんまり心配で、タクシーを拾って、手稲まで送ってきたのよ」
「手稲まで?」
「ママが行かなくても、乗せてあげたら、それでよかったじゃないの」
「それはそうだけど、もしも運転手さんが面倒がって、お家を探してあげないと困るでしょ?」
「やられた!」
兄は大仰に、じゅうたんの上にひっくり返って見せた。
ママには、もともとそんなところがあって、パパもこんなママを心から愛していたはずなのだ。いや、今だって愛しているように思うのだけれど、ママが時々拒絶反応を示すのだ。するとパパは、悲しげにじっとママを見つめているだけで、何もいわない。パパが変わったのはここなのだ。以前なら、
「おや、ママらしくないよ、それは」
とか、
「へえ、ママでもそんなことをするの」
とかいって、やさしくたしなめたはずなのに、パパはもう何もたしなめなくなったのだ。
いったいそれはなぜか? わたしにはそこがわからないのだ。パパは相も変わらず、酒もタバコものまず、外泊もしない。社用で時々出張したり、遅くなるのも以前と同じ程度の回数だ。わたしたちには、パパ自身は少しも変貌していないように見えるけれど、きっと、どこかで変わっているのかも知れない。だから、あの幼な子のようなママが、お酒を飲んで泣くようになってしまったのだ。
が、もしかして、わたしのこの推理は、まちがっているかも知れない。あの空汁事件? の何日かあと、ママはいったのだ。
「早苗ちゃん、あなたはママが苦しんでいるのに、ただ、だまって見ているだけなのね」
「でもママ、わたしママに、どうしてあげたらいいのよ」
本当のところ、わたしは誰の傷にもふれたくはないのだ。
「ママはね、早苗ちゃん。ママは、パパに愛してほしいのよ」
そういってママは、わたしの顔をじっとのぞきこむようにした。目がうるんでいた。
「パパは、ママを愛しているじゃない」
「ううん、愛してはいないのよ」
「そうかなあ、そうは見えないけどなあ。でもそうだとすると、パパって悪党なのね」
途端にママは激しく首を横にふり、
「ちがう! パパはいい人なの。あんまり……あんまりいい人すぎるの」
と、ちゃぶ台の上に顔をふせて、むせび泣いた。
結局、ママもわたしには全部をいえはしなかった。何がママを苦しめているのか、やはりわたしにはわからない。
もしかして、ママはとり返しのつかぬ過失でも犯したのではないか。それとも、どちらも悪いのだろうか。わたしには、パパもママも、まじめな人たちに思われるのだけれど。
今朝、ごはんを食べながら、テレビを見ていたら「お早う、北海道の皆さん」という対談番組があった。
「きょうは、札幌在住の新進詩人、沢謙三さんをご紹介いたします」
とアナウンサーがいった。わたしはハッとした。あのベンツの人だ。わたしは思わずママを見た。ママは伏目のまま食事をしている。兄が、
「ほう、沢謙三か。この人、パパの会社の社長の三男坊でしょう」
と詳しい。
「うむ」
パパは、トーストにバターをぬりながら、うなずいた。
「この頃、随筆なんかも書いているよね」
「そうかね」
ママは黙って、パンをむしっていた。
「それにしてもいいマスクだ。新劇の俳優のようだな」
この人のベンツに、母が乗っていたことを兄は知らない。パパは知っているのだろうか。テレビを見ながら、黙々と食事をしている。
アナウンサーがいった。
「独身でいらっしゃるそうですが、まだしばらく独身を楽しまれますか」
ママの目がちらりとテレビに行き、すぐにまた伏目になった。
「独身を楽しむとおっしゃられるほど、楽しんでもおりませんが」
いい声だ。男性的なバリトンだ。鼻筋が通っていて、横を向くと、日本人離れのした顔になる。
「そうでしょうか」
アナウンサーは愛想のよい笑顔を見せたが、何となく、
「嘘をおっしゃい」
という感じの声音だった。
「もてるよ、この男は」
兄はいい、
「ママ、この人の詩、読んだことがある」
と聞いた。
「いいえ」
ママはちらりとテレビを見た。
詩人は腕を組み、うつむいて、
「詩は遠すぎます」
といったのかも知れない。
パパは何か考えていた。その証拠に、からになったミルクカップを、しきりにぐるぐる廻していた。
「この人の詩はね、ちょっとおもしろいんだ。化学方程式なんて出てきてさ」
ママはうなずき、しきりに指で、食卓のふちをこすっていた。人間というのは、それぞれ断崖に立たされているような存在だと、わたしは思った。
この頃、わたしは学問に不信の念を抱きはじめている。それはパパを見ているからだろうか。パパは勉強家だ。ちょっとしたフランス文学者よりは、ずっとすぐれている。造詣が深い。だが、それが一体、この世の誰を幸せにしたのだろう。
学問は絶対的に必要なことか、それとも、相対的に必要なことか。もし、学問が真理だとしたら、それは絶対的に必要でなければならないはずだ。
しかし、わたしは自分の学んでいるものを、絶対的に真理だという確信がなくなった。真理の追求と幸福は、一致しなければならぬ。これはわたしの持論だが、この持論の幼さの故に、確信がなくなってきたのであろうか。ある詩人のいった、
「学問は幻想にすぎない」
という言葉が、この頃妙に気にかかる。
学問は真理だと学者はいう。
神は真理だと宗教家はいう。しかし、これをイコールでつないで、学問は神だということができるだろうか。
ニーチェは「主体性が真理」だといった、人間の数ほど真理があると。
古本屋で岩淵辰雄の「軍閥の系譜」住本利男の「占領秘録」を買った。自分の生まれた日本という国が知りたいのだ。わたしが中世を学ぼうとするのもそのためなのだ。日本を知ることは、わたしにとって、自分を知ることにつながるはずなのだ。自分を知るということは、他の人を知ることにつながり、人の幸せにつながるという図式のはずだった。
が、現実のわたしは、わが家の真の姿を知ることにすら怯懦である。ママの涙が、あんなに流されているというのに。
黒いベンツの主に会おうか。ふっとわたしはそう思った。あの沢謙三が一つの鍵を持っているはずなのだ。でも本当は、その前にパパに尋ねたほうがいいのではないか。パパこそ鍵を持っているはずなのだから。